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脱原発と地球温暖化 [社会・環境問題]

こんにちは~ (*^_^*)/

 「反原発」は、かつてのベトナム反戦運動のような盛り上がりを見せ、新宿界隈のデモ行進は「授業妨害以外の何者でもない」状態が続いていますが、そんなにデモ行進したければ、これから世界で最も原発を大量建設して稼働させようとしているChinaへ行って「反原発」を叫んで下さい。Chinaで原発事故が起これば、間違いなく風下の日本に放射性物質が降り注ぎますよ。

ま、Chinaの核実験に全く反対してこなかった内弁慶たちに、そんな勇気はないでしょうが・・・

中共は64年10月以来46回の核実験を東トルキスタンで実施.jpg

Chianが東トルキスタンで46回の核実験を行い、多くの住民が犠牲になったとき、日本のマスコミは報道すらしませんでした。 シルクロードでも核実験が行われて、多くの日本人観光客が被爆しています。核実験にすら反応しなかった人々が、なぜ原発に反対するのでしょう?脱原発で得をする人たちは誰でしょうか?

--------------------------------------(産経新聞2011年8月8日)-----------

 震災下の8・15 『安定電力で生き延びた戦後日本』

曽野綾子

私 は小説家として、現実の生活を見つめる生活ばかりしたせいか、結論はいつも妥協的な視点になっていた。世の中には、偉大な妥協的視点というものもあるかも しれないが、私のは極めて俗物的・小市民的なもので、まず我が身や家族、友達などの安全を計り、それから労力、心遣い、お金などをあまり愚かしく浪費しな いことだ、と考えるのである。
従ってこういう態度には、ほとんど指導的な強さを持たないが、絶対多数の民主主義的論理からいうと、一応の存在意義を与えられていいのかもしれない。

経済損失少ない次善の選択
 す ぐさま原子力発電を止めても社会的影響がないなら、私も止めることに賛成だ。しかし日本は戦後上質の電気をコンスタントに供給できる世界に数少ない国家と して、それだけを頼りに生き延びてきたと思う。よく言われることだが、地下資源がほとんどない国で国民が豊かな暮らしをするには、電力によって上質の工業製品を作ることで付加価値を得ることだけだった。電力が不足すれば壊滅的打撃を受ける産業ばかりだということは、素人にも分かる。そして一つの会社の凋落 は、大きな社会的な連鎖反応になって国民生活に響くのだから、そこで「最上ではないけれど経済的損失の比較的少ない次善の選択をしなければならない」とい う理論が納得できる。

使える原発安全に使い続けよ
 数字が苦手だから小説家になった癖に、私は簡単なものなら、数字を上げて説明してもらうのが好きである。普段から、小説でくどくど書いても、この男がなぜこの女に惚れたのか、どうしてもうまく読者には伝わらないという悲劇を生む場合 もあるので、数字が示すものは、はっきりしていて好きである。八ッ場ダムを継続するか中止するかは、私にとってなかなか興味深い問題だった。八ッ場ダムの全体事業費は約4600億円である。前原誠司元国交相が「マニュフェストにあるので」ダムの建設中止を明言したのは平成21年9月17日の未明だそうで、 前年に当たる平成」20年度までに投資された事業費は3199億円だという事実もなかなか衝撃的である。つまりダムをやめれば、この金のほとんどはドブに捨てたことになる。壮大な無駄遣いというものは、やはり大臣でないとできない。一般の国民はもっとけちな計算をする。
 八ッ場ダムの発電能力は大し て大きくない。1万1700キロワットだから、昔から故郷の川筋にできていた小さな発電所くらいだ。ダムの目的の第一は洪水調節で、第二は吾妻川の流量を 常に確保するということである。そして第三に上水の確保がある。埼玉県に約85万立方メートル、東京都に約50万立方メートル(いずれも1日最大)という ぐあいに1都5県に水道水を供給する。今は水は十分だ。工業用水も不景気で余っているのだろうが、いつ洪水が続出し、急に旱魃続きになって渇水になるかわからない。最近の地球は全く気まぐれだ。水に関しては溜める方にも使う法にも十分な余力が要る。それが政治家の任務だと私は思う。
 無駄を省くのは いいが、ある程度お金をかけてきたダムの計画のようなものは、その計画だけは完成し、後は止めるのが経済的だろう。原発も、今使えるものは事故を起こさな いように使い続け、そのうちに代替えエネルギーを考えて漸次廃止にもっていくというのが、私のようなけちな人間の考える実利だ。冷蔵庫の機能をよくするには中のものを少なくしろといわれるが、だからといって入っている食料を捨てる人は愚かである。我が家の冷蔵庫は奥の壁が見えるほどものが少ないが、私は食料を無駄に捨てたことはない。

温暖化防止の声どこに行った
 東日本大震災後、4ヶ月になって、私はやっと被災地に2日だけ行った。 そして津波で町が消えた宮城県女川町の海辺にも立った。津波に流される前でも人口はたった1万人。どんなによく設備の整った豊かな町だったろうと思わせる 風景だった。ここには「原子力発電施設等周辺地域交付金」「電力移出県等交付金」「原子力発電等立地地域長期発展対策交付金」の3種の交付金が合計で毎年 8億円も出されていたのである。
 私はそれを悪いと言っているのではない。人は誰でも便利や富を分け合う。独占はいけないが、誰もが分け合う心はよしとした。
「原発を停止した後の電力の電力は?」と聞くと、火力だという。燃料は石炭やLNGであろう。
つい数か月前まで、秋の落ち葉で焚き火をしても、地球温暖化と二酸化炭素の増加防止に逆行する許しがたい犯人のような眼でみられ、叱られた。震災後、全くその声は聞こえなくなった。あの声の主たちは、今どこへ行って、今度は何を言っているのだろう。 

-------------------(朝刊7ページから全文引用)-----------------------

そう言えば、地球温暖化をストップする為に「二酸化炭素の排出量を25%削減」と叫んでいたのは、民主党の鳩山元首相。世界に原発を推進して二酸化炭素の削減をすると約束した筈では・・・

原発をやめて全て火力発電にしたら、二酸化炭素はどれだけ増加するのかな[exclamation&question]

---------------------------------(産経新聞2011.8.1)

原発についての冷静な討論を

石原慎太郎

 東日本大災害がもたらした原発事故によって原子力の利用について改めての議論がかまびすし いが、それを論じる時事をもう少し冷静に、もう少し多元的に考え論じる必要がありそうだ。原発の存続についての現下の議論の中から幾つか大切な問題が弾き だされてしまっているような気がする。

 日本は世界で唯一の被爆国であり、その痛ましい経験が一種のトラウマを造成し、それがさらにこと原 子力に関しては、それを疑い忌避する強いセンチメントをもたらしていることは否めない。ものごとを論じる時、ある種の感情ほど厄介な障害はない。ことは恋 愛に似ていてあんな男、あんな女と一緒になったら必ず不幸になるぞと周りがいくら説いても、一旦抱いた恋愛感情はその結果の不幸を体験しない限り払拭出来 るものではない。

 アナキスティックで政治の運用に関しては無能に近い菅首相の原発に関する言動は、自らの地位の保身のために国民の多くが 潜在的に抱いている原子力に関するセンチメントに卑屈に媚(こ)びるものでしかなく、原発に関して国民の将来のために冷静な討論と選択を導きだすものでは 決してない。一国の最高指導者としてはあまりにも軽率といおうか、国家の運命を損ないかねまい。

 原発の問題を論じるときにまず第一に念頭に置かなくてはならぬことは、我々が将来いかなる社会、いかなる生活を望むかということに違いない。今日我々が享受しているこの過剰ともいえる奢侈贅沢(しゃしぜいたく)をはたして失うことが出来るのかということ。

 そしてその維持を望むならそれを支えている経済産業のために、文明工学的に不可欠な電力を いかに供給出来るかという冷静な分析が必要に違いない。周りが懸念している不幸をもたらす結婚に敢えて落魄(らくはく)を覚悟で臨む決意があるならそれは それで良かろうが。自然エネルギーの活用というのは耳ざわりはいいが、果たして太陽光や風力への依存で世界で有数な日本経済が成り立ち得るのかを冷静に計 量計算する必要があるはずだ。

 第二に、今回の原発事故の被害の拡大はチェルノブイリやスリーマイル島の事故と本質的に似ていて、さまざまな要因による人災であるという認識が必要だ。その反面、多くの電力を原発に頼っているフランスが、原発を断念したドイツやイタリーに今後も原発による電力の供給を拡大して続けるという事態の意味を考えるべきではないか。フランス人に出来ている原発の管理が、なぜ日本人に出来なかったかということへの反省が 不可欠なはずだ。既存の法律体系がその障害となって困難だ、と担当大臣はいっているが、ならばそれを変えることをなぜしようとしないのか。既存の法律体系 を超える、超法規の試みを行うことこそ政治家の責任ではないか。

                   ◇

 IAEAが指摘したように日本の場合には、電力会社と経済産業省とこれにからむ政治家たちのもたれ合いという複雑な体制がことのすみやかな解決の障害となった。それは反省の上に立って、合理化出来ぬものでは決してあるまい。

  それに加えて現政府の、官僚を無視した行政運営の杜撰(ずさん)な独善性が、被害を拡大させ的確な対策を遅延させてしまった。支援に到来したアメリカの空 母が一時退避してしまった所以(ゆえん)は、建屋の中に充満している放射能を風向きを計って当事者が当然取るべきベンチレイションによる海への拡散を予期 してのことだったが総理のヘリによる現地視察が障害となって遅延し、行った時には風向きが一変して逆の奥地への拡散被曝(ひばく)となってしまった。こう した基本的作業を遅滞させてしまう情報の混乱錯乱は本来あり得ぬことなのにそれが結果として多くの国民に体内被曝をもたらしてしまったのだ。

 第三に、原発に関わるエネルギー問題を考える時、現在世界全体を覆ってきている異常気象が表象する温暖化現象を忘れる訳にはいかない。この問題は人類全体の存在を左右しかねないものであって、ことが大きすぎるために念頭から離れがちだが事態は 歴然として進行している。NASAのハンセン教授が指摘しているようにこのままでいけば北極海の氷は後十五年ほどで溶けきってしまうだろう。そうした現象 がさらに進んで人間全体の存在にどのような影響をもたらすかは決して想像外のことではあるまいに。

 そのためにも、それぞれの立場の者たちがCO2削減のためにさまざまな手立てを講じているのだが、多くの電力供給手段の中で原発は、管理さえ行きとどけば温暖化の抑制のためにはコストバランスからも格好の手立てであった筈だ。

  一方発展途上国は効率の良い発電施設として原発に頼ろうとしている。原子力に関してフランスに並んだ先進国の日本がそれに応えて責任を果たすこともまた、 国家の存在感を強め新しい連帯をはぐくむ術に違いないが、国民のセンチメントにおもねって保身を計る首相は自ら売り込んだ原発プロジェクトを自ら否定して かかる体たらくだ。

 国家の存亡をきめるものは決して経済産業だけではないが、しかしそれを敢えて阻害してでも何を望むのかという討論をこ そ政府が主導すべきなのに、自らの地位の保身のために繰り返される軽率短絡的な首相の言動は、持たれるべき、我々の命運を左右しかねぬ真摯(しんし)で冷静な討論を阻害してかかるものでしかない。我々はこんな人物に国家の運命をゆだねる訳にはとてもいかない。

--------------------(以上引用終わり)-----------------------

思いつきでその場しのぎの発言しかしない超軽量級の首相が続くので、この為体(ていたらく)なのですね。個人的には、石原首相を待望していますが・・・・[ひらめき]

 -----------------------(産経新聞2011.8.10)

震災下の8・15 

拓殖大学大学院教授・遠藤浩一

・「一国平和」に似た「一国脱原発」

 昭和20年9月2日、降伏文書に署名調印した重光葵外相(東久邇内閣)はその前日に心境をこう詠んでいる(『重光葵手記』)。

 神国の栄え行くなる一里塚

 ならぬ堪忍する日の来りぬ

 敗戦前後の焦燥と虚脱の中で、この人は比較的冷静で、国体を護持し、祖国を再建するには「ならぬ堪忍」、すなわちポツダム宣言の履行徹底が肝要であると思い極めていた。

 ≪自主的憲法改正図った重光≫

  自主的な憲法改正についてもこれを当然とし、とりわけ統帥権の独立を排して軍政の一元化をはからねばならぬと考えた。言うまでもなくこの時、重光は、軍事力そのものを否定したわけではない。軍事力の運用システムを自由民主体制に相応しいものに改めねばならないと構想したのである。

 しかし、同時に彼は、左翼勢力が占領軍(重光はこの時点では正しく「敵」と表記している)に乗ずるかたちで、「左傾的憲法改正」を要求してくることを懸念した。敵や左翼に付け込まれぬためにも、自主的に憲法を改めなければならない、としたのである。

  が、“敵”は、重光が想定する以上に強(したた)か(かつ愚か)だった。自主的改定を潰し、日本を徹底的に屈服させるための道具としての新憲法を制定させ た。それは、「諸国民の公正と信義」は信頼に値するものだけれども、日本国及び日本人は信用できない、したがって、軍事力そのものを放棄すべし、という思想で覆われたものだった。

 ここから軍事力自体の否定を背骨とする平和主義が跋扈(ばっこ)し始めることとなる。左翼がこれを最大限に活用したことは言うまでもない。もちろん、彼らは世界中すべての軍事力を否定したわけではなく、ソ連などの共産主義国家や日本が共産化したのちの軍事力については積極的に肯定した。

 ≪非対称性に戦後の欺瞞あり≫

 こうした非対称性にこそ、戦後平和主義の欺瞞(ぎまん)と限界があるのだといわなければならない。

  もっとも、これは日本だけの病ではなかった。米ソ冷戦期には、世界のあちこちで、「反核運動」なるものが繰り広げられたものだが、それは、専ら言論の自由が保証される西側社会における動きであって、赤の広場や天安門広場ではそうした運動は不可能だった。つまり、それは平和運動に名を借りた一方的な政治宣伝運動にほかならなかったのである。

 軍事力それ自体は中性であって、善でも悪でもない。行使する主体によって善にも悪にもなりうる。身も蓋もない言い方をするならば、核兵器をはじめとする軍事力は、自国にとっては善だが、他国のそれは悪である。立場が替われば善と悪は入れ替わる。

 そうした善悪中性の装置について、その是非をあえてあげつらい、運動化していく背景には、必ず別の政治的動機が潜んでいる。これらの政治運動が挫折してきたのは、特定の地域においてのみ成立する偏頗(へんぱ)なものでしかなかったからである。

 冷戦期の平和主義は左翼全体主義の道具だったが、我(わ)が国では“保守本流”もこれに取 り込まれて、一国平和主義の袋小路に迷い込んでしまった。自分の国さえ軍事力を放棄すれば平和は担保される、自分の国さえ平和ならそれでいいという処世術 を、少なからぬ日本人は共有してきた。

 さて、このところ何かと喧(やかま)しい「脱原発」スローガンも、かつての「平和主義」スローガンと構造が似ている。軍事力が中性であるのと同様、原子力もそれ自体は中性である。

 ≪ならぬ堪忍は原発との共存?≫

  千年に一度の自然災害によって福島第1原子力発電所が大きな被害を受け、放射性物質が拡散するという異常事態の中で、私どもは今、心理的パニック状態に 陥っている。得体(えたい)のしれない恐怖の中で、原子力発電を運用してきたシステムをいかに構築し直すかではなく、原発それ自体を否定することで安らぎ を得ようとしている。

 原発そのものを否定しようというのなら、世界中すべての原発が対象となる筈である。が、ドイツやイタリア、 スイス(といった旧敗戦国や中立国)が前のめりになって、「脱原発」へと進むのを尻目に、アメリカやフランス,中国,韓国は止めようとはしない。ここでも 非対称性が存在する。要するに、「脱原発」も所詮、特定の地域で叫ばれる偏頗なスローガンでしかないのである。諸国民の原発は信頼できるが、日本人のそれは信用できないという欺瞞と矛盾に、我々(われわれ)日本人は耐え続けることができるだろうか?

 大震災後の日本人が迫られている「ならぬ堪忍」は、原子力発電を諦めることなのか、それとも、今回得た教訓を基にこれと共存していくことなのか。

 スローガンではなく、真剣かつ冷静な検討が求められている。(えんどう こういち)

------------------------(以上引用終わり)-----------------

その通りですよね。

「脱原発」を叫ぶ人たちは、まず北京で「230基建設予定の原発」に対して反対のシュプレヒコールを挙げるべきでしょう。日本から導入した新幹線でさえ大事故を起こしたChinaの原発が、日本の原発より信用できるというのは、屁理屈以外の何者でもありませんよね[exclamation×2] Chinaに「脱原発」を迫れないなら、記事の通り、「脱原発」は親China派による扇動としか考えられませんよね。


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