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「安心病」と「脱原発」 [社会・環境問題]

こんにちは~ (*^_^*)/

最近の「脱原発」運動は、かつての「反核」運動の感がありますよね。

----------------------------(産経新聞2011.05.27) 『小さな親切 大きなお世話』

「安J心病」の特効薬は  曾野綾子

ある日の夕方、NHKのニュースを見ていて、私はおかしな気分にとらえられた。
そこに出てくる、たくさんの人たち校長先生,保母さん,母親たち,視力障害者,漁港の人,アナウンサーーなどが流行語のように「安心して・・・したい」と言うのである。安心して仕事を始めたい。安心して子供を外で遊ばせたい。安心して昔と同じように暮らしたい。
私は私の人生で、かつて一度も、安心して暮らしたことはない。今一応家内安全なら、こんな幸運が続いていいのだろうか。電気も水道も止まらない生活がいつまでできるのだろうか、私の健康はいつまで保つのだろうか、と、絶えず現状を信じずに暮らしてきた。
何度も書いているのだが、安心して暮らせる生活などというものを、人生を知っている大の大人が言うものではない。そんなものは、地震や津波が来なくても、もともとどこにもないのである。アナウンサーにも、最低限それくらいの人生に対する恐れを持たせないと、お子さま放送局みたいになって、聞くに耐えない軽さで人生を伝えることになる。
安心して暮らせる生活を、約束する人は嘘つきか詐欺師。求める方は物知らずか幼児性の持ち主である。
前者は選挙中の立候補者にたくさん発生し、後者は女性か老人に多い。
自分で働いてお金を得ている人は、現実を知っているから、なかなかそういう発想にならない。
しかしこれほど多くの人が「安心して暮らせる生活」なるものが現世にあるはずだ、と思い始めているとしたら、それは日本人全体の精神の異常事態だ。ことに、これだけの天災と事故が起きた後で、まだ「安心して暮らせる状況」があると思うのは、不幸な事態から何も学ばなかったことになる。
政治家が、よく分からない時に限って、「きっちりとやる」という癖があることは国民も気づき始めたようで、先日投書にも出ていたが、大きな事故の後は臨機応変の処置をしなければならず、日々刻々変化する状況に対して柔軟に戦略を立てていかなければならないから、決して大口をたたけない
一方、国民の方は普から原発を「絶対に安全なのか」という言い方で追いつめてきた。「いや、物事に絶対安全はありませんから、事故の場合を想定して避難訓練もいたします」と原発側が言ったとすると「事故が起きる想定の下で、原発建設をやるのか!」とやられるから、「原発は絶対に安全です」という子供じみた応答になる。
しかし物事に「絶対安全」ということはないのである。今後いかなるエネルギー政策をやろうと、絶対の安全はないという認識が国民の側にもないと、物事は動かない。もちろん安全は必要だから、より安全を執拗に目指すことは当然だ。
「安心して暮らせる」とか「絶対安全でなげれば」とかは、共に空虚な言葉だ。それはこの世に、完全な善人も悪人もいないのに、幼稚な人道主義者が、自分は善人でそうでない人は悪人と分けることと似ていて、こんな子供じみたやり方では、政治はもちろん、経済も文学も成り立ちえない。国民全体が知らず知らずに感染している「安心病」をまともな感覚にまで引き戻す特効薬はないものか。( そのあやこ) 
-------------------------(以上引用終わり)------ 

この「安心」というのがくせ者ですね。(((((。・_・。)ノ  まあ、「政治主導」で瞑想する無能な民主党素人政権に「安心」できないのは、日本人共通だと思いますが・・・・

--------------------------------------------(産経新聞2011.7.1)

極まるポピュリズム

 中部電力の浜岡原子力発電所の全面停止について、総理は「国民の安全と安心のため」とおっ しゃったんですが、“安全”というのは科学技術的に大丈夫と評価されるもの。対して“安心”ということについては、人によってどうしようもないくらい差がある。そういうところに行政が踏み込むことが妥当なのかどうか-。松浦祥次郎・元原子力安全委員長が先月、日本記者クラブの会見でこう述べた。

  安全は、科学技術上ここまで対応可能なら、あるいはここまでの基準を満たしているのなら「大丈夫」というもの。一方、安心は危険度(リスク)がゼロであって言いうるもので、多少でもリスクがある以上、国民個々で受け止め方に大きな差がある。松浦元委員長は、安全と安心は別の問題であると言いたかったのだろ う。

 日本はいま、多くの先端科学技術の恩恵に浴する中で国民生活が営まれている。飛行機や自動車、高速鉄道など交通手段の高度化と多様化、携帯電話やインターネットなど通信手段の超便利化と低価格化。生活やビジネスのインフラは、歴史上かつてないほどの進化を遂げている。

  しかしこの現代文明は、進化と同時に人間へのリスクも増大させている。最近話題の携帯電話が癌の原因のひとつではないかとか、遺伝子組み換え作物の副作用はどうなのかとか、数え上げればきりがないほどリスク項目はある。そうしたことを科学技術的に安全度は高い(危険度は低い)と当局が判定して国家が運営されている。

 そこで原発問題だが、核分裂反応をエネルギーとして利用する原発は、それ自体がリスク存在ではある。そのリスクをうまくコントロールして国民生活に豊かさをもたらすのが現代文明だ。つまり、安全をとるか安心をとるかという二者択一の問題ではなく、総合的なバランスのなかで両立させていくことが求められている。

 「安心」がこれからの“売り”だと短慮し、自己の政権運営に最大限利 用しようとたくらんだのが首相だ。リスクは、その有益性がどれほどのものであろうとも、廃止すれば「安心」をアピールできる。浜岡停止は、民主党の最大の 武器であるポピュリズム(大衆迎合主義)がいかんなく発揮された出来事であったのだ。しかし、場当たり的な政策の代償は大きい。電力不足で経済はガタガタ になる。雇用は失われ国民は貧困に向かう。新たな「不安社会」の始まりだ。(編集委員 小林隆太郎)

-----------------------(以上引用終わり)-----------------------

日本人の悪いところ は極端に走るところです。「原発事故→脱原発→全ての原発の即時停止」の発想は止めましょう。高温岩体発電など、有望な代替発電の開発を急ぎつつ、原発の 震災や津波などへの対策を進め、数十年かけて徐々に原発の比率を下げていけば良いのです(ただし、太陽光や風力は止めておきましょう)。 新幹線も、小さい故障や事故を経験して、安全性を引き上げていったからこそ、大震災でも死傷者を出すような大惨事を免れたのです。

-----------------------------------------(産経新聞2011.7.21)

最高の原子炉開発し世界に売れ

評論家・屋山太郎 

 菅直人首相が7月13日に突然、記者会見を求めて「将来的に原発に依存しない社会を目指す」と明言した。この首相発言は、福島第1原発事故に驚愕(きょうがく)している国民の受けを狙ったものに違いない。支持率が10%台まで落ちた首相が、 起死回生の策と信じて打ち出したものだろう。しかし、国家の浮沈にかかわるこのような問題を首相が一存で発表すること自体、正気の沙汰ではない。果たして、翌日の閣僚懇談会では閣僚から強く文句をつけられ、首相は「私個人の考え」と釈明したという。

脱原発で日本企業生き残れず

 首相の言う「脱原発」に国民は大きく心を動かされたろう。20~30年がかりで原発を廃止に持っていく。その間に風力、太陽光、地熱、石炭・石油火力発電を充実させるといえば、一見可能と錯覚させるが、果たしてそうか。

  北欧の風力発電を見学に行ったことがあるが、洋々たる大地が広がり、そこに穏やかな偏西風が常時吹いている。見た瞬間、「台風常襲国の日本では無理だ」と 実感したものである。太陽光発電パネルも良いが、孫正義氏によると、全国の休耕田に設置するという。休耕田を全部潰すつもりなのか。田畑はパネルなどよりも、もっと貴重な農業用財産なのだ。

 いずれにせよ、再生エネルギーが仮にものになるにしても、ここ何十年かはコストの高い電力になる。現在、韓国の電気料金は日本の4割で、法人税も日本の40%に対して24%である日本の企業が国際競争で生き残れなくなり、海外に出ていけば、 日本人は高い電気料金を払えなくなるだろう。

 戦時中に米軍機の空襲で夜毎(よごと)、灯火管制を余儀なくされた。いま「でんき予報」を聞 かされるたびに、灯火管制の不愉快さを思い出す。当時は、いつか戦争が終われば、明るい電気の下で家族そろってご飯が食べられると我慢できたが、今回の 「でんき予報」には永久に続く恐怖感、不快感を覚える。国全体をこんな縮み志向に陥れて繁栄するわけがない。

ドイツの選択は駝鳥の平和

  地球を守るために全世界が一体となって原子力発電を止めようというなら話は別だが、地球のエコのためには原発がいいという国もある。世界は原発設置派と脱原発派で二分されている。フランスは全電力の80%を原子炉で生み出し近隣諸国に売電もしている。隣のドイツ、イタリア、スイスは福島の事故を見て脱原発 を決めたが、実は、フランスの原発で生まれた電気を買っている。この夏、フランスに行ったが、フランス人は笑っていた。原発は事故の危険があるから造らないと、ドイツ人は言っているが、われわれの原発はドイツとの国境近くに並んでいる。原子炉さえなければ安全だと思うのは、駝鳥(だちょう)の平和だ、と。

 英国は1970年代に設置した原子炉の寿命が来て建て替え期に入っている。福島の事故は英国にも衝撃を与えたが、英政府は「大地震や大津波の心配はなく、建造中の新原子炉の安全性は福島の旧式のものより進歩している」と判断、新設計画を進めて いる。石炭火力発電所を欧州連合(EU)の環境規制で2015年までに閉鎖せざるを得ない事情もある。

 中国は原発建設方針を変えていない。中国で事故があれば日本は黄砂被害どころではない

 世界の原発設置派と脱原発派が調和する方法がひとつある。どの国のどこの原発も事故が起こらないものにすることである。

福島の事故はミスによる人災

  福島の事故を考えてみると、これはどうみても人災としかいえない。第一に、貞観地震による14~15メートルの津波の記録を無視して建てられた。交流電源 喪失でも大丈夫だという原子力安全・保安院の指針も大間違いだった。なぜ、こんな初歩的ミスを犯したのか憤りを覚えるが、その背景が事故後に露(あら)わ になってきた。東京電力とそれを規制する経済産業省、監督する同省の保安院が天下りを通じてずぶずぶの関係になっていたのだ。さらに、東電から流れる研究費という名のカネによって、学者までが一体となり、「原子力ムラ」を形成し、安全神話を広めてきた。これを可能にしたのは、地域独占という電力会社の体質 だ。

 東電の官僚体質はかつての国鉄と運輸省の関係そっくりだ。国鉄は毎年2兆円の国費を食っていたが、分割民営されてJRになってからは補助金なしで、逆に7000億円の税金を納めるようになった。福島の事故は東電の官僚体質がもたらした人災と断 じてよい。東電はすべからく破産させ、発送電分離を進めるべきだ。東京を除き、各ブロックの経済団体会長は電力会社トップで占められている。親方日の丸の 会社が経済団体の長を務めることは、経済活動の活性化を損なうと知るべきだ。

 さて、日本は原発をどうすべきか。日本の技術力を結集して、世界最高の原子炉を開発することである。地震にも津波にも耐え、事故も起きない炉をつくり、世界の原子炉を日本製にすることを目指せ。これは夢物語ではない。日本にしかできない業だろう。(ややま たろう)

-------------------------(以上引用終わり)--------------------

 原発については警備も含めた­、徹底的な安全策を添加すべきでしょう。そのためには、「脱原発」の叫びを上げるより、危機管理のための知恵を出し合うべきです。どうせ、頭が硬直した官僚に任せておいても、ことなかれの表面的な対応に終始するだけでしょうからね。それこそ「安心」できません。

-----------------------------------------(産経新聞2011.7.22)

原子力技術の資産失うべからず

拓殖大学大学院教授・森本敏

 日本国内ではこのところとみに閉塞感が強い。国を挙げて大震災からの復興に邁 進(まいしん)すべきときであるのに、政治のあまりの体たらくに国民の気力も萎えてしまう感じだ。政権交代は国民が選択した結果だとしても、その代償は大 き過ぎた。2割未満の国民しか支持していない首相が、十分な議論もなく次々に延命策を繰り出す。こんな政治状況は異常である。

 ≪相次ぐ長期的展望抜きの対応≫

  民主党政権が誕生してから2年この方、鳩山由紀夫前政権は温室効果ガス25%削減を打ち出し、その後、米軍普天間飛行場の移設問題を完全にぶち壊した。菅直人政権は尖閣諸島付近で“実力行使”に出た中国人船長を中国の威圧に屈して釈放し、その後、大震災にあたってろくでもない判断を重ねた揚げ句、「脱原発」を言いだした。いずれも、長期的な展望に立たない対応だらけである。

 その結果、米同盟の信頼関係は完全に壊れ、中国ばかりかロシア、韓国からも領土問題で攻勢をかけられ、株価は下落、国の赤字は増え、格差は拡大、国力は目に見えて衰えている。企業は円高、電力不足、法人税、 TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)不参加などに苦しみ、海外移転を計画しているところも少なくない。防衛費やODA(政府開発援助)など国力の基礎となる外交や防衛の手段もやせ細る一方だ。世界競争力センター(IMD)が5月に発表したところによると、日本の経済力は対象国59カ国中27位、政府の効率性は50位である。何という情けない国になったことか。

 重要なのは原発政策である。「脱原発」が、日本の経済成長と発展にとって重大な阻害要因になることは疑いようもない。企業は安定的な電力供給も求めて海外に逃避し、国内産業は空洞化して雇用が落ち込み、日本の競争力は一層低下するであろう。
 

 ≪「脱原発」は「脱抑止力」に≫

  米国、中国、ロシア、インド、韓国、北朝鮮などアジア太平洋地域の国で、「脱原発」を唱える所などない。福島原発事故を受け、稼働していながら停止に追い込まれたのはドイツの原発と浜岡原発だけであり、原発に依存しないようにしていくと決めたのが数カ国あるだけだ。それ以外はほとんど原発政策を変えていな い。

 日本が戦後半世紀、プルサーマルや再処理の高度な原子力技術を持ちつつも、核兵器保有を選択しなかったことは、周辺国に対する大きな 抑止力になっている。自然は人間の英知で乗り越えなければならないのであって、困難な環境下で蓄積してきた原子力の技術的資産を失ってはならない。

  日本は福島事故を克服し、その経験と技術を世界の原子力安全管理に活かす方向で主導権をとるべきである。政策は感情で決めてはならず、指導者が「個人の考え」で国の行方を左右する重要政策を決めることは許されない。そんなことも弁(わきま)えていないなら、民主党はもはや、「反国益政党」でしかない。そんな政党に国と民の将来を委ねていいわけがない。(もりもと さとし)

--------------------------(以上引用終わり)------------------

ちなみに、朝日新聞7月21日の「平和利用 潜む核武装論」に、はからずも「脱原発=反核」の意図があることが明確にされましたね。道理でChinaや韓国の息のかかったマスコミが、「脱原発」を熱烈に応援するのか分かりました。日本の核武装の可能性を根絶やしにして、核技術を独占したいのでしょう。( ̄x ̄;)

核技術を日本に放棄させてしまえば、核兵器で脅し放題ですものね。

---------------------------------------------------(産経新聞2011.6.23)

今、静かに原発の効用を考える

評論家・木元教子

 ≪送電網めぐる欧州と島国の違い≫

 東 日本大震災に伴う福島第1原子力発電所事故の報道が続く。その中で、「脱原発」のニュースも海外から伝わっている。例えば、総電力量の約23%を原子力で 供給し、平均12年間の運転延長を決めて、原発維持を表明していたドイツ。「百八十度の方向転換に驚いた」という産業界の声を背に、メルケル首相は、 2022年までの原発全廃を決めた。電力関連企業は、原発の運転停止決定の無効を求めて提訴した、とドイツに住む妹からメールが届いた。

 スイスは所有する5基の運転更新や改修をせず、34年までに廃炉にする方針を決定。イタリアは国民投票で脱原発へ舵(かじ)を切り、「電力を輸入に頼る国の生き方を変えたい」というベルルスコーニ首相の思いは閉ざされた。

  ヨーロッパは周知のように、送電線やガスパイプラインが、国境を越えて網の目のように張り巡らされており、脱原発を唱えて原子力を排除している国も、現実 はフランスの原発が生み出した電気を輸入したりしている。ドイツもスイスもイタリアも、である。そのあたり、「脱原発」の信念と矛盾はないのだろうか。

  ドイツやイタリアと協調して日本も脱原発を、と言われても、電力をはじめエネルギーを融通し合えるヨーロッパ大陸と違い、日本は島国であって、送電線が他国と繋(つな)がっているわけではない。再生可能エネルギーも、全員参加型の努力がもっと必要だ。新エネルギー部会委員をしている私は、安定供給の難しさ を認識している。

 ≪エネルギー自給率低い日本≫

 日本のエネルギー自給率を見てみると、わずか4%である。これは先進国で最も低い。フランスは8%、イタリアは15%だ。日本の一次エネルギー供給の中心はむろん石油で、その石油の約9割を、政情の不安定な中東からの輸入に依存する原発燃料のウランも輸入に頼っている。しかし、一度燃料を原子炉に入れると、1 年以上取り替えず発電に使用できる。

 使用済み燃料をリサイクルすることで、これを準国産と見なしてみても、自給率はやっと18%だ。ちなみに、フランスは日本と同様に、エネルギー資源に乏しい国だけれど、いち早く原子力利用の研究に取り組み、総発電量に占める原子力の割合は現在、約80% にまでなっている。ウランを準国産エネルギーと考えると、フランスの自給率は51%になる。

 福島第1原発事故の後、日本国内でも、「脱原発」「反原発」、「原発は即廃止」「段階的に原子力発電を減らす」という声が増えているのは事実であり、それを否定もしないし、分かる所もある。中に、こんな声があった。「日本は、唯一の被爆国なのに、なぜ原子力発電を導入したのか」

 ≪自らの言葉で語り出した人々≫

 いま 確かに、是であれ、非であれ、普通の人々が原発を自分の言葉で語ろうとしている。原発は、アクシデントという不幸な状況の下で、やっと“日の目を見た”の ではないか。いままでは、その姿も形も、働きぶりも失敗も、専門家や業務上関心のある人たちだけの間で捉えられ、また、語られていたように思う。けれど、 現実には、豊かな生活や産業の原動力としての原発は、普通の人々が日々お世話になる基幹電源として存在していた。人々はその事実を改めて確認し、知らずにいたことに戸惑ったりしているのである。

 いまこそ、原発は、はっきりと姿を現して、今後のあり方を問う声を確認し、その問いに堂々と答える存在であってほしい。

  では、「日本はなぜ原子力発電を導入したのか」。1941年に遡(さかのぼ)れば、いわゆる「ABCD包囲網」で経済や貿易を封鎖され、石油資源確保のた め戦争を始めた日本が見える。そして45年、敗戦。日本復興のエネルギーとして、52年に、日本学術会議総会は原子力開発の必要性を提案した。

 中曽根康弘元首相の話を伺ったことがある。50年、中曽根氏はマッカーサー元帥に建白書を提出。「原子力の平和利用を講和条約で制限するな」と注文した。これは産経新聞の記事にもある。

 53年、アイゼンハワー米大統領が「アトムズ・フォア・ピース」を提唱すると、翌54年、 日本初の原子力予算が組まれ、日本の原子力平和利用研究が始まった。原子力基本法が施行されて、原子力の研究、開発、利用の平和利用3原則が生まれたのが 56年である。自主,民主,公開の3原則を謳い、あくまで平和利用に限るとした。平和利用の原子力はより安全、健全に稼働しなければならない。

 ところで、菅直人首相の「法律によらない要請」により中部電力の浜岡原発の全号機が停止した。民間企業の営業を、バッサリと手続きもなく停止要請する権限を、いつから首相は持ったのか。

 電気事業法によれば、正当な理由がある場合を除き、電気事業者は需要者への供給義務を負っている。発電所が停止している夏場の需要期に、電力不足が生じたら、首相は、この供給義務を肩代わりしてくれるというのだろうか。(きもと のりこ)

---------------------(以上引用終わり)-------------------- 

内閣法を無視し菅の独断で行われた浜岡原発停止要請。閣議決定もなく首相の鶴の一声で全てが決定されるプロセスは独裁以外の何ものでもない。今回の決定を絶賛する輩は菅直人独裁を認める者たちだ。(YouTubeより)

--------------------------------------------------(産経新聞2011.8.26)

「脱原発」と日本経済 東谷暁氏

自立に必要なエネルギー

 ●冷静な議論がない

 --「脱原発」を掲げることが流行のようになっているが

  「福島原発の事故でショックを受けたあまり、恐怖感から冷静な議論ができないでいる。従来、原発推進を叫んできた人たちさえ突然、意見を変えているが、そ の姿が『現在の日本の弱さ』を示しているように思えてならない。何が日本の国益にかない、プラスになるのか。慎重に議論すべきだ」

 --「脱原発」はマイナスか

  「原発問題は、単に経済やコストの問題ではない。日本が原発に乗り出した経緯を振り返れば、それがよく分かるだろう。資源が少なく、エネルギー自給率が極 めて低い日本にとって、エネルギーの安全保障、自立を確保するには、原発に乗り出すしかなかった。しかも、原発を維持する技術を日本が保持していること が、『潜在的な抑止力』になっていることを見逃してはならない。原発は軍事的安全保障の面でも日本の独立に、大きな役割を果たしている。今の危機を何とし てでも乗り越え、事故をしっかりと検証し、その経験を日本の資産にすべきだ」

●電力料金が上がる

 --ドイツやイタリアは「脱原発」を宣言したが

 「ドイツや イタリアの電力料金は圧倒的に高い。電力を他国から買えばコストが上がるのは当たりまえの話だ。『脱原発』を打ち出しているのは一部の国にすぎず、世界的 な趨勢(すうせい)はむしろ原発拡大にある。また今回の事故にからめて、電力の自由化や発電・送電の分離などを叫ぶ向きがあるが、これもマイナスにしかな らないだろう。自由化などを進めたドイツの場合、寡占化が進み5年間で7割も電気料金が上がった。電力の安定供給の面でも不安が大きい。そうなれば日本の 企業はいっせいに海外へと生産拠点を移すだろう」

 --今夏の状況をみて、「原発なしでもやれるのではないか」と指摘する声もある

  「現在の状況は、企業や家庭に15%程度の節電を呼び掛け、大口に対しては使用制限まで実施して、“どうにかこうにか”うまくいっているにすぎない。電力 の需要は、季節や時間帯によって大きく変化する上、ためておくことができない性質を持っている。それを微妙なコントロールで、何とか安定的な電力供給を 保ってきたのだ。これを『常態』だと誤解してはならない」

 --退陣を表明した菅直人首相に対しては?

 「(原発事故の対応は)『他の首相であっても結果は同じだった』とは決して思わない。自分の延命のために、場当たり的な対応を繰り返してきたからだ。価値観、倫理観を持たない政治家は、その国を虚弱にしてしまう」

【プロフィル】東谷暁

 ひがしたに・さとし ジャーナリスト。昭和28年、山形県生まれ。58 歳。早稲田大学政経学部卒。ビジネス誌、論壇誌の編集長などを経てフリーに。経済問題を主に、月刊「正論」などで活発な文筆活動を行っている。主な著書に 「間違いだらけのTPP 日本は食い物にされる」など。

--------------------------(以上引用終わり)--------------------

さてここで、梧桐の記事引用が全て産経新聞に偏っていますが、それは以下の理由からです。

日本のマスコミは日中記者交換協定「日中双方の新聞記者交換に関するメモに縛られており、産経新聞は協定違反としてChinaから追放されています。 Chinaから追放処分を受けたことのない報道機関は、信用に値しません。

 さて、このマスコミの報道姿勢の対比に関連する記事がありますので、ついでにピックアップしておきましょう。
 
------------------------------------------(産経新聞2011.8.26)

現れた国民派VS.市民派の対立

筑波大学大学院教授・古田博司

 大震災、津波でわが国の10分の1程度が機能不全に陥った。そして、それに続く原発事故からの立ち直りをめぐり、わが国全国紙は今、ふた手に分かれて、その主張を繰り広げている。ひとつは国民派新聞(読売・日経・産経)であり、もうひとつは市民派新聞(朝日・毎日・東京)である。

 ≪原発全廃か稼働かで違い鮮明≫

 前者は、国家経済の健全なる回復をめざすがゆえに、原発の再稼働を辞さない。後者は、市民社会の平和と安全を理想とするために、原発の全廃を唱えている

  市民派新聞で論陣を張るのは、市民派ジャーナリスト・市民運動家・人権派弁護士・市民派大学教授などである。彼らは国家より市民社会を優先させている。あるいは市民社会は国家と対抗しつつその権力を弱める形で、理想を実現しつつあると考える。従って、市民社会は国家の枠の外にある

 一方、 国民派新聞は、あくまでも国家の中に市民社会があり、まずは国家経済を立て直すことが急務だと認識する。市民社会が国家権力に対抗して自己実現しているな どとは思いもよらない。目に見える現実を信じているから理想は遠くにある。将来、原発に代わるエネルギーを選択することになるにしても、まずは再稼働して電力を補わなければならないさもなければ、安い電力を求めて企業も人材も海外へ行ってしまう。産業が空洞化し失業率は高まる。原発全廃などすれば、わが 国がこれまで蓄えてきた科学技術の多くを失いかねない。と、国民派ジャーナリスト・財界人・国民派論壇人・国民派大学教授らは憂慮する。

 

 ≪市民社会は国家の枠内か外か≫

 市民派にとっては、そんなことは二の次である。市民社会は国境を超えることが大事であり、数の力で既得権益勢力と闘わねばならない。原発,原爆,戦争,資本の搾取,植民地支配,ナショナリズムなど、市民がその非人道性を叫び、世界にメッセージを発信していくことこそ重要なのだ。

 彼らには、財界人が、原発再稼働と原発事業の海外展開を唱えれば唱えるほど、「神州不滅」「国体護持」を叫んだ旧帝国軍人に見えてくる。市民派が闘うべき今日の国体は経済大国であり、その武装解除は市民社会の伸長につながると思うのである。従って、「10年前、いや20年前にもどれ」「低エネルギー社会の先進国になろ う」「日本は東洋のポルトガルでいいじゃないか」と、ことさらに国の弱体化を願うのである。

 私は国民派の大学教授である。だから市民派の 読者がこの論考を読めば、市民派への偏見をもって書かれており、価値相対主義的ではない、客観的ではない、と判断されることだろう。だが、ここに書いたことは、全て市民派新聞から抜粋したものであり、それらを羅列したにすぎない。そしてこうした事象から見えるのは、諸君がかつての冷戦時代の社会主義者、社会民主主義者の子孫であり、社会主義体制の世界的な凋落から身を守り、先祖と変わり映えしない主張を市民派の外皮を纏ってしている のだという事実である。

 ≪外皮纏った社会・社民主義者≫

 欧米先進諸国では、社会民主主義は1990年代にすでに終わったと認識されている。グローバル化という新しい資本主義の攻勢と冷戦の勝者で当初独り勝ちだった米国の新自由主義に対し、欧州の左派たちは一斉に反発した過去がある。社会民主主義者たちは、環境保護団体などの国境を超えた政治的連帯、あるいは複数の国家の多文化的な協力関係が必要だと主張し、自分たちの国家にさまざまな修正を働きかけていった。

 しかし、現実は彼らよりさらに先に進ん だ。2008年に米国に端を発する金融大崩壊が起き、米経済は一気に沈滞化し、世界は米一極に耐えられず無極化してしまう。欧州連合(EU)内でも破産国 家が顕在化し始めた。そして、ノルウェーの7・22テロ事件に見られるような、多文化主義に対する攻撃まで起きるに至った。

 スロベニア生まれのスラヴォイ・ジジェクは08年のリーマン・ショックを経て、こう自己認識する。「じつは進行中の危機の最大の犠牲者は、資本主義ではなく左派なのかもしれない。またしても世界的に実行可能な代案を示せないことが、誰の目にも明らかになったのだから。そう、窮地に陥ったのは左派だ。まるで近年の出来事 はそれを実証するために仕組まれた賭であったかのようだ。そうして壊滅的な危機においても、資本主義に代わる実効的なものはないということがわかったので ある」(『ポストモダンの共産主義-はじめは悲劇として、二度めは笑劇として-』)

 自らを「市民」とよぶ修正主義者は日本だけの特徴だが、日本ではこの市民派が現在、執権している。陣容は、市民運動家、人権派弁護士などで、市民運動家が闘うべき「既得権益層の子弟」もいる。労使協力の原発労組から後援を得ている議員もいる。残念だが、欧州より遥かに古くさい日本型市民に社会改革ができるとは到底、思われないのである。(ふるた ひろし)

-------------------(以上引用終わり)--------------------

ある製薬会社の会長が梧桐に言ってくれました。「労働組合は会社を経営できない。連中に経営を任せたら、会社はほどなく倒産するだろう。結局困るのは、社員たちだ」って。 


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